「絶望の国の幸福な若者たち」という本がベストセラーになっています。「注目の若き社会学者が満を持して立ち上げる、まったく新しい若者論」などと、あちこち で話題になっています。
作者の古市憲寿さんは、新聞や雑誌での紹介、それにテレビ出演しているのも何度か見かけましたが、見栄えよく、賢そうで、ちょっと ナイーブな「いまの若者」って感じでした。
いわゆる、よくいる学者系のコメンテーターなどと比べると、おとなしめの感じがしますが、時々飛び出す旧世代 への皮肉などは、案外辛らつ。だけど、それが、あまりにもピュアに的をえているので、まわりのおじさんたちが戸惑った顔をしたりするのも、面白い。そんな 感じの人でした。
さて、肝心の本の話。『格差社会のもと、「不幸だ」「かわいそうだ」と報じられる若者たちですが、僕らは幸せです。内閣府の「国民生活に関する世論調査」でも、20代男 子の65.9%、女子の75.2%が現在の生活に「満足」していると答えているなど、それはデータ的にも示されています。』というのが、この本のベースに なっています。
なぜ「絶望の国日本に暮らしながら、幸せだ」と言うのか?
それは、つぎの一説に凝縮されていると思います。もう日本には、経済成長は期待できないかもしれない。だけど、この国には日々の生活を彩り、楽しませてくれるものがたくさん揃っている。それほどお金がなくても、工夫次第で僕たちは、それなりの日々を送ることが出来る。彼は、みんなが「今の若者は可哀相だ」と言うけれど、経済が右肩上がりだった1980年代に若者だった世代が、幸せだったとは思えないし、もし可能だとしても、成長社会ゆえの不幸や歪みが内包されていたそんな時代の若者にはなりたくない、と書いています。
たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を 3時間、家ではYou Tubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具は、ニトリとIKEA。夜は友達の家でに集まって鍋。お金をあまりかけなく ても、そこそこ楽しい日常を送ることができる。
定年まで滅私奉公してひとつの会社しか知らず(これぞ内向きと彼は言う)、35年ローンで家を買って、リタイアしたら「そばうち」・・・なんて人生は、 お金がいっぱいあるとしても僕らは結構です・・・という感じなのです。
上の世代への皮肉ともとれる部分もあり、『「今の若者が不幸だ」と言うのは上の世代の嫉妬』だとまで言い、読んだら気分を害したり、怒るおじさんもいるかもしれません。
でも、腹を立てずに、一度読んでみると面白いと思います。妙な主張や意図がないところが、いまの若者を知る手がかりになります。
もし、「お金をかけなくても、毎日便利で楽しい生活をおくり、小さな幸せがあるだって?」「そんな恵まれた生活インフラを享受できているのは、上の 世代ががんばってつくってくれたものでしょ!」「パラサイトしてるだけじゃないか!」等といっても、「だから何?だって、それが僕らの時代なんだか ら・・・」とでも言わんばかりの軽やかさなのです。
この本を読んでわかることは、一言で言えば、絶望と言われる時代にあっても、今の若者は、利用すべきものは利用して、甘えられるところは甘えて、そ んなにがんばらないでも、それなりに自分らしく自由に楽しく快適に「いま」を生きていく能力が高いということでしょうか?その代わり、ないものねだりも、 青い鳥を追うこともしない。考えても仕方のないことは、考えない。昔をうらやむこともない。そして、小さいけれども確かな幸せを楽しむ術を持つ。上の世代 からは、つまらなく感じるかもしれませんが、それは成熟社会の、進化した幸せの持ち方の先駈けなのかもしれません。
小さな幸せは、本当に幸せ?
この本は、次のような結びになっています。『「日本」がなくなっても、かつて「日本」だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである。受け取り方によっては、少し切ない感じになりますが、実は、「若者は先行世代とは違う、新しいスタイルを持っている」「それが、本当の豊かさなはず」、と作者は希望と自信を感じているような気がします。私は、それは、与えられた条件の中でのポジティブさなのではないかと感じました。
一人一人がより幸せに生きられるなら「日本」は守られるべきだが、そうでないならば別に「日本」にこだわる必要はない。だから、僕には「日本が終わる」 と焦る人の気持ちがわからないし「日本が終わる?だから何?」と思ってしまうのだ。歴史が教えてくれるように、人はどんな状況でも、意外と生き延びていく ことができる。』
『「日本」にこだわるのか、世界中どこでも生きていけるような自分になるのか、難しいことは考えずにとりあえず毎日を過ごしていくのか。
幸いなことに、選択肢も無数に用意されている。経済大国としての遺産もあるし、衰退国としての先の見えなさもある。歴史的に見てもそんなに悪い時代じゃない。
戻るべき「あの頃」もないし、目の前に問題は山済みだし、未来に希望なんてない。だけど、現状にそこまで不満があるわけじゃない。
なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく。
絶望の国の、幸福な「若者」として』
大人たちに、ありがちな反応。
この本を読んで、大人たちはこう言うかもしれません。あなたは、慶応のSFCを出て、仲間がやっているITの会社にいながら東大の大学院に在籍している26歳のいわばエリート。でも、職にもつけず生活保護を受ける若者や、ワーキングプアと言われる若者たちでも幸せだと言うのか?
あるいは、今幸せだとしても、大人になったらどうするのか?守ってくれる親もいなくなり、豊かなインフラを消費し尽くした後は、どう生きるのか?・・・と。
でも、その答えは、あとがきの中にあります。
『世界には、きっと、誰にさえも気づかれないような転轍機が無数に張り巡らされていて、僕たちの人生は何気ないきっかけで道が分かれてしまう。そして、その世界には後戻りができないような仕掛けが施されていて、ちょっとやそっとじゃ、やり直しが効かない。私は、この本の中で、このあとがきが、もっとも心に響きました。詩的ですら、あると感じました。
・・・・・(中略)・・・・・
ここにいなかったかも知れない「自分」のことを思う。無数の反実性を繰り返したところで、ここにいない「自分」が何をしているのか知る由もないが、ちょっとした違いで人生を変えた「自分」にはシンパシーを感じる。
今より幸せな場所にいるのなら羨ましいけれど、今よりも幸せじゃない場所にいるのならば、後ろめたさを覚える。
その後ろめたさというのは、違う世界にいる「僕」に対して感じると同時に、この世界にいる「誰か」にも感じるものだ。つまり、違う世界では「僕」が引き受けなければならなかった』役割を、この世界で引き受けてしまった「誰か」がいるだろうからだ。』
『同時代を生きることになった人々のこと、僕たちが生きることになった国のことを、この本では考えてきた。それは、別に社会全体に向けられた啓蒙意 識からでも、少しでもこの国を良くしたいという市民意識からでもない。ただ、「自分」のこと、「自分のまわり」のことを少しでもまともに知りたかっただけ なのだ。』
『違う世界にエールは届かない。
だけど、そのエールが響きあうことはあるのかもしれないと思う。』
彼のある種のセンチメンタリズムを、私は救いであり希望であると感じると同時に、日本で、若者の間から、海外のような格差への激しい抗議がおこらない理由がわかったような気がしました。
そして、彼が言うように、結局のところ、世代論では語れないのです。
この本に書いてあることにどれだけ共感するか、あるいは反発するか。それとも、ただの若者データ集として読むか。それは、もしかしたら世代や立場の違いではなく、感受性の違いによるのかもしれないと思います。
私も何十年か前に、新人社会人の頃、ひとつの会社しか知らず、定年までのレールが見えている人生なんてつまらない、と感じました。どうせ一度の人 生、もっと自由に生きたいと。でも、それは、わがままでもあり、ある種のドロップアウトでもあり、とても重いことでもありました。
だけど、いま、彼らは、それを普通のこととし、それを実現できるインフラと情報と可能性をもっています。その軽やかさは、とてもうらやましい感じがします。
彼は、この本が、「自分」と「自分のまわり」以外の誰かの役にたつなら、それは嬉しいけれど、『それはもはや「僕」の問題ではない』と言っていま す。言えることがあるとするなら、この本を踏み台にしながら、新しい何かを考えてみたら楽しんじゃないか・・・と。その意味では、まさに多くの年代層にとって も、踏み台にできる一冊だと思います。
<外部リンク>
アマゾンで「絶望の国の幸福な若者たち」を見る。
日経BPのこの対談も、割と面白いです。
「絶望の国の幸福な若者たち」の古市憲寿さんに聞く(前編)
『頑張って報われるか分からないのに頑張るのは無駄』、「絶望の国の幸福な若者たち」の古市憲寿さんに聞く(後編)