混雑した電車のシルバーシートの前で吊革につかまりながら、先日、ある食事会で出た世代間格差の話を思い出しました。
「高齢世代の中に、自分たちが受けているさまざまな受益は当然の既得権だといわんばかりの人がいるけど、少しは若い世代への配慮を持つべき。」そんな話をしていた時、「でも、高齢者を敬うという気持ちを子供に教えることは大切なのではないか?」という投げかけをした人がいました。
あらためて、老人を敬愛すること、つまり敬老精神とは一体、何なのでしょうか?
私も、こどもの頃に「お年寄りを敬いなさい」と教えられました。また、ごはんを食べるときには「お百姓さんに感謝して、残さずいただきなさい」とも言われました。子どもの私は、「誰かの生産活動のおかげで、自分が今ここに存在したり、ごはんを食べている。そのことに感謝をしなさい」ということだと理解していました。
でも、「敬老の日」は国民の祝日ですが、「敬農の日」はありません。日本では敬老精神は特別なもののように扱われてきた面があって、それは、長幼の序という文化概念によるものではないかと思います。それは年 長者と年少者との間にある秩序を現わす概念で、「子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方」で、若者が一方的に高齢者を尊敬するというものではなく、高齢者から慈しまれる存在として、そのことも含めて年上の方々を敬おうという文化であると思います。
年下の者が敬うと同時に、年上の者が慈しむのが人間関係なのですから、一方通行の関係であってはならないし、年上の者にも敬われるにふさわしい器量なり、相応の態度が求められて当然だということになります。
「敬老の日」の法的定義は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」です。
人が「老いていくこと」への敬意とは、すなわち「生きること」への敬意の象徴ではないかと思いますし、同時に、祖父母から親、そして自分へとつながる連続性への敬意であり、自分から子や孫につなげるべき連続性への責任にもつながると思います。
生きて、何かを生産し(つまり、社会につくし)、次につなぐ。その循環の象徴として、お年寄りを敬うという文化があったのではないでしょうか。それは、「今現在のお年寄り」だけを敬うこととは少し違うのではないかという気がします。
団塊世代を中心とする60代以上の生涯純受益は「プラス4000万円」である一方、10代以下の将来世代の生涯純受益は「マイナス8000万円」。将来は、若者一人がお年寄り一人を支える肩車型になる。そんな数字が頻繁に報道される状況でも、自分の権利を主張する高齢者がいたとしたら、やはり、心から敬う気にはならなくても仕方ないのではないでしょうか?(数字は、厚生労働省のデータによる。くわしくはこちらに書いています)
もうひとつ、敬老という時に、「お年寄りを大切にする」=「弱者にやさしくする」というニュアンスが含まれているように思います。
例えば「お年寄りに席を譲りましょう」と子どもに教えることはいいかもしれません。でも、それは、高齢者だけではなく、障がいのある方や子供連れのお母さん、もしかしたら疲れ切ったビジネスマンに対しても、同じく向けられていいもののはずです。
薄給の深夜勤務でくたびれ果てた非正規労働の若者や、ぐずる子供に困っている母親を目の当たりにして、「わしは年寄りだから当然」と席に座る高齢者がいたら、敬う気にはならないのではないでしょうか。今の世代間格差は、いわば、それと同じような状況だと思います。本当の弱者は誰なのか?それが見えにくい時代なのかもしれません。
「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」
そのことに異論はありませんが、少なくとも、「お年寄りを大切にする」という美名で、世代間格差の解消を先送りするわけにはいかないと思います。そこから、敬老精神が崩れていく可能性すらあるのではないのでしょうか?
子どもに、正しい敬老精神や、弱い立場の人や困っている人への思いやりを教えることは大切かと思いますが、同時に、いまの日本の現状をきちんと教え、これから大人になり将来の社会を担っていく彼らがきちんとものごとを考えられるようにしていくことも大切ではないかと思います。
もちろん、それは社会を構成する全員が考えていくべき課題であることは、いうまでもありませんが。