昨日のBS11のINsideOUTは、とても考えさせられる内容でした。
テーマは、「死に急ぐ若者 無差別殺傷『誰でも良かった』の背景」。
キャスターはNPO法人自殺対策支援センター「ライフリンク」の代表、清水康之氏。
ゲストは、文化人類学者の上田紀行氏と北九州でホームレス支援をする牧師の奥田知志氏。
3年前におこった秋葉原の事件に代表されるような、若者による無差別殺傷事件が増えていること、さらには彼らが共通して「誰でもいいから殺したかっ た」「誰でもよかった」と言っていることをとりあげ、その背景として現代社会が抱える問題について、話が交わされました。番組の中で、印象に残った言葉をメモ しておこうと思います。
今の社会構造の問題点について。
「『誰でもいいから殺したかった』は、『誰でもいいから話を聞いて欲しかった』『誰でもいいから、相談に乗って欲しかった』『誰でもいいから自分の ことを認めてほしかった』という希求の裏返しであり、その行き場がなくなってしまった時に、「誰でもいいから殺したかった』にジャンプしてしまったのでは ないかと思うし、それは、異常な犯罪だということだけですませられる問題ではない。」(奥田)
「今の社会では、すべての人間は使い捨てであり、物扱いされている。つまり、『誰でもいいもの』である。今の若者たちはそんなイメージを持ってい る。それは、つまり、自分も『誰でもいいもの』であり、自分が死んでも誰も悲しまない。だから、まわりの人も、『誰でもいいもの』であり、それを殺しても 誰も悲しまないということになってしまっているのではないか。」(上田)
「非正規雇用が増えていること自体よりも、非正規雇用が非人間的雇用になっていることが問題。「誰でもいいんだよ。君がいやなら、電話一本すれば、 代わりはいくらでもいるんだから」と言われるような使い方をされているうちに、無名化し、孤立化してしまい、自分自身が何なのかわからなくなる。
今は、人が労働力ですらなく、物のように使い捨されてしまう時代。社会自体のあり方、価値観、人間に対する向かい方が問われている。」(上田)
「景気が悪くなる前から、自分は交換可能であり誰でもいい存在だという感覚、つまり人格的な疎外感はあった。しかし、景気がいい時は、『それでも、自分は恵まれている』と感じられる部分もまだあったので、踏みとどまることができた。
しかし、景気が悪化して、職がないとか貧困とかが重なると、二重に疎外されてしまう。一重の疎外だけなら踏みとどまることが出来るし、反社会という 方向に向かうこともできたが、二重の阻害になると、もうよって立つところが見えなくなり、自分がこの社会のどこに痕跡を残せばいいのかすら分からなくな る。行き場がなくなってしまう。」(上田)
では、どうすればいいのか?
「大人が、勝ちパターンを変えなければならない。高度成長を体験して来た世代は、景気さえ回復すれば、また元に戻ると思ってしまう。本当に人間が何に苦悩しているのか?何に子供たちが苦しんでいるかを理解しなければならない。」
「以前は、例えば家族、地域、会社(終身雇用)、つまり地縁、血縁、社縁という受容的な受け皿が合ったので、何かあっても支えてもらえた。しかし、今はそれがない。」(奥田)
「何のために生きるか、何をめざして生きるか、を見直すべきだ。がんばって豊かさを手に入れること、『満足=幸福』だったと時代は終わった。これか らは、満足できない時代に生きることを考えるべき。満足できなくても、幸せにはなれる。満足と幸福は必ずしもひとつではない。そんな多様な価値観を探して いかなければならない。
そして、これまで、満足をめざしてきた我々の社会は、人を幸せにしたのか?それを、私たちはもう一度考えなければならない。」(上田)
「社会には、それを支えている大きなイメージがある。
かつて、日本社会には、『何かがあっても、どこかで誰かが支えてくれる』と言う信頼感があった。
でも、この15年くらいで、『この社会は、あふれた者を見捨てる、切っていくんだ』というイメージをもつようになった。『知らない誰かを殺すこともあるんだ』というイメージの社会になった。
次代に向けて、『救う人がいる』というイメージを取り戻すことが必要。例えば、震災の復興でも、被害にあった人を徹底的に救う、という社会の姿を見 せれば、それによって、『この国には、救いがあるんだ』『支えてくれる国だ』という社会へのイメージが生まれ、それが直接的に救われる人だけではなく、そ れを見ている多くの人の救いにもなる。」(上田)
「『自己責任』という言葉はよくない。
『自己責任』は、人間にとっての尊厳であり、自分で選択し、自分で責任をももつことは尊厳の根本でもある。しかし、今のような選択できない社会における『自己責任』は、人を助けないこと、社会の無責任さのいいわけになっている。自らも周りも傷つけている。」(奥田)
「『何が必要か』だけではなく、『誰が必要か』が重要なのではないか。その点、『誰でもいいから』は、ある意味では救いだと思いたい。誰でもいいんなら、俺でもいいんじゃないか、俺が話を聞こうじゃないか、と言いたい。
でも、いまは、助ける方も匿名化している。助ける方も、自分を失っている。直接出会うと傷ついたり、悩んだりするので、出会いを回避してしまう。でも、たとえ傷ついても、悩んでも、出会って、絆をつくっていかなければならない。」(奥田)
あふれそうなコップの水。
番組でも語られていたように、高度成長期を経験した世代の私は、自分がそれを成功として意識していないにしても、確かにある種の成功体験を持ってい るといえます。それは自分の努力や才能のせいではなく、単に時代が良かったせい。その意味では、今の若者よりは恵まれているのかもしれません。
しかし、今、そんないい時代に戻ることはないと思うし、ある種の不安や無力感や、希望のなさは、付きまとうように存在します。犯罪を起こした若者を容 認するわけではないし、決して許されることではないと思います。しかし、ただ凶悪な犯罪者だとして非難する気にはなれないし、その心情を理解できる何かが、自 分の中にもあると感じます。それは、世代をこえた、いまの社会のイメージではないでしょう?
今の社会のメタファとして、清水氏は、「表面張力で張り切って、ちょっと衝撃を受けるとこぼれてしまうコップの水」のようなものだと表現していました。 なるほど、と思いました。張りつめてあふれそうなコップの中では、何か衝撃が加わったときに、どの水が、どれくらいあふれ出すのかわからない。だから、コップ の中の誰もが不安をかかえている。
あふれ出したら、コップの中には戻れないから、あふれ出した者は、仕方がないとあきらめるし、意思ある者は、あふれ出さないように、自分の力で自分を守らなければならないと思いつめ、結果として、自分のことだけを考えるようになる。
そして、多くの者が、いつ自分があふれ出すかわからないコップの中で今を浮遊する。
もちろん、これは、若者だけの問題ではない。すべての世代が、そうなりつつあるのかもしれません。
コップを大きくして、あふれださないようにすること、つまり景気を回復させることでしか、この問題は解決しないという人もいます。
あふれた水のためにコップの下に受け皿を用意するべき、あるいは、あふれ出した水がふたたび元のコップに戻れるようなパイプをつくるべきだという人もいます。つまり、セイフティネットや支援システムの充実です。
どれがいいのか。どこから、どうすればいいのか。まして、自分に何ができるのか、わかりません。
ただ、奥田氏の「誰でもいいんなら、俺でもいいんじゃないか、俺が話を聞こうじゃないか、と言いたい。」と言う言葉が心に残り、ちいさな灯りがともったたような気がしました。
何もできなくても、せめて、そんな風に言える人間になりたいと思いました。