2012年12月29日土曜日

ゲーミフィケーションについて考える。

ここ1年くらいで、「ゲーミフィケーション」という言葉をよく耳にするようになりました。でも、日常会話でもよく使っていながら、あらためて「ゲーミフィケーションって、何?」と聞かれると、説明するのはなかなか難しい概念です。このあたりで、一度、まとめてみようかと思います。

具体的な事例から考えてみましょう。

まず思い浮かべるのは教育分野です。例えば、「質のよい教育を、すべての人々のために」を理念とする、すばらしいオンラインラーニングサイト「カーンアカデミー(khanacademy)」。「教育の未来とは、こういうものになるのではないか」と言われるほど高い評価を受けていますが、「ゲーミフィケーション」を効果的に取り入れたサービスとして有名です。

カーンアカデミーは、サルマン・カーン氏により立ち上げられた非営利教育団体で、世界のトップクラスの講義を無料で提供しています。数学のコンテンツが有名ですが、他にも科学、歴史、生物、経済等の多様な科目で、2600本以上のビデオと自主学習用資料を有し、世界中で学ばれています。これまで教育を受けることができなかった発展途上国では、学校教育にも活用され、教育機会の拡大に貢献しています。

カーンアカデミーのシステムは、本当によくできており、それぞれに適した速度で学習できるようになっています。生徒と先生をグループ化して、生徒の学習の進捗をモニターできるしくみも提供され、学校の授業にも活用されています。

学習ムービーに他の生徒のコメントがついていたり、学習の達成に応じてバッジがもらえたり、知識マップがビジュアルに表示されたり、学習者が意欲をもって学び続けられるゲーム的要素を導入して、様々な工夫で学習能率をあげようとしています。

カーンアカデミーについては、「SMATOOS」のサイトにわかりやすい説明があります。
多くの人達がカーンアカデミーを選ぶ理由。
http://jp.smatoos.com/?p=264


マーケティング分野では、「Nike+ 」がよくとりあげられます。
ゲーミフィケーションの事例としては必ずといっていいほど紹介されるものです。

「Nike+ 」は、ナイキが販売するNike+専用ガジェットを購入することで参加できるサービスです。専用ガジェットはシューズに取り付けるタイプ、腕時計タイプ、ブレスレットタイプなど複数用意されていて、利用者の活動・運動を測定することができます。走った距離、消費したカロリー、歩いた歩数などを自動的に記録し、ネットに接続することでデータをNike+上にアップロードできます。アップされたデータは日々蓄積され、自分の活動状況がビジュアルにグラフなどで表現されます。





毎日の目標を自分で設定し、活動データを蓄積。目標の達成状況に応じて様々なバッジが付与されたり、Facebookと連動することで、Nike+を使っている友人と運動量による「ランキング」が表示されるようになっていたり。運動を続けるための心理的動機付けを与え、意欲を高めるためのこれらの工夫には、「ゲーミフィケーション」の考え方が取り入れられています。


ゲーミフィケーションとは?

以上の例から、ゲーミフィケーションをひと言で言えば「ゲームで使われている動機付けのしくみを活用すること」だと言えるのではないかと思いますが、 IT Proのサイトでは、以下のようにまとめられていました。
ゲーミフィケーションは、ゲームを独自の視点から眺めます。ゲームで遊んでいる人は、お金をもらうためにゲームで遊んでいるわけではありません。自分でやりたいと思ってゲームをし、時に多くの時間を投じ、複雑なルールであっても自ら進んで覚えようとし、うまいやり方を試行錯誤を通じて学習していきます。ゲームが人をこのようにさせる仕組みに注目するのがゲーミフィケーションの視点です。よくできたゲームに人は夢中になりますが、それはこの仕組みを備えているからと言えます。つまり、ゲームとは人を動機付ける仕組み、「動機付けエンジン」を備えている娯楽コンテンツであると考えられます。ゲーミフィケーションとは、この「動機付けエンジン」は実はゲームでないものでも機能する、という発想を具体化する取り組みのことを指します。

IT pro「企業のためのゲーミフィケーション」より引用
第2回 ゲーミフィケーションとは?
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20121225/446592/

ゲーミフィケーションというと、娯楽性と誤解している人もいるようですが、そうではなくむしろ、「夢中にさせてしまうメカニズム」の方にポイントがあります。

私は以前、ヘルスケア分野のウェブサービスの開発に関わった経験がありますが、その際にも、いかにすれば健康のための習慣を継続させる「動機づけ」を行えるかは、大きなテーマでした。その頃にも、ゲーミフィケーション的な発想はありましたが、その実現は困難でした。しかし、その後インターネット技術は急速に進化し、できることは飛躍的に増えてきていると感じます。ソーシャルツールなどを含め、インフラが整ってきたことで、ゲーミフィケーションの発想は、より実践しやすくなってきています。

マーケティング分野でも、マイレージプログラムなど、動機づけを目的とするしくみはたくさん導入されてきました。しかし、「ゲーミフィケーション」は、人間の感情や習性を巧みに利用したゲームのメカニズムを取り入れることで、それらを高度化し、より有効なプログラムにしていこうとする点が新しいのだと思います。マーケティング分野だけでなく、教育、ヘルスケア、スポーツ、社員教育、福祉、社会問題、政治の分野など、実践の領域は無限とも言えます。

接客やマネジメントなどのノウハウの開発においても、「ゲーミフィケーション」の成果を応用できる余地は大きいのではないかと思います。「ゲーミフィケーション」の概念を明確化することで、わくわくするようなアイデアが生まれてくるような気がします。


2012年11月30日金曜日

日本の「子供」の総数は、なんと8,700万人!?

博報堂生活総合研究所は、毎年末に翌年以降の生活者動向を予測する「生活動力」を発表していますが、今回、2013年に向けて提言するテーマは「総子化(そうしか)」。少子高齢化により、「子供」が増えているというのです

いわゆる未成人の「子供」は減っているけれども、長寿化により、親が健在であるという意味での、「子」の属性を持つ人の数は増えている。
つまり、40歳でも、50歳でも、60歳でも、親が健在であれば、「子供」。そういう前提でをカウントすると、日本の「子供」の総数はなんと8,700万人にもなるということでした。

そこに、「少子化」ならぬ「総子化」という切り口が見えてきて、新しいマーケティングの可能性があるのではないかという提言がなされています。



総子化」で、どうなる?

プレスリリースから主なポイントを抜粋してみます。

<増える中高年チルドレン>
親が存命の『成人子供』人口が総人口の約半数に
・未成年ではなく、成人であり、かつ自分自身の親が存命である「成人子供」が増加している。
・1950年には総人口の29.0%にとどまっていた成人子供の割合は、
 1965年までに未成年子供人口の割合と逆転、2000年には総人口の約半数を占めるに至った。
・2010年の総「子供」数は成人子供と未成年子供で8,700万人へ。
・特に30代以上の「中高年チルドレン」が増加。2030年には総人口の約4割を占める見込み。
・対して未成年子供人口の割合は一貫して縮小。
この大きな流れは変わることなく未来へと続いていく。

<子供平均年齢、30歳超え>
2010年の子供平均年齢は32.8歳、2030年には36.7歳に
・「子供」が高齢化している。
・高齢化と少子化が同時に進行することで、子供の平均年齢は5年に1歳程度のペースで上昇
・1990年代には20歳台だった子供の平均年齢は、2000年に30歳の大台を超え、2010年には32.8歳。2030年には36.7歳になると予測されている。
日本は今、世の中を支える「大人」が「子供」であるという新しい構造の社会へと突入しつつある。

<親子60年時代へ>
親子共存年数は約60年に
人生の3分の2以上を子供として過ごす時代へ
・「子供」の高年齢化と、平均余命の伸びとともに、生まれてから親を看取るまでの「親子共存年数」も長期化。
・1955年の親子共存年数は父親45.5年、母親51.9年だったが、2000年には父親50.7年、母親59.4年となり、親子の共存年数は約60年に達した。
2030年になってもこの年数は変わらず、生まれてから約60年間、人生の3分の2以上を「子供」として過ごす時代。子供のまま還暦を迎え親に祝福される人や、子供のまま役員や社長になる人さえ珍しくなくなる。

生活が変化する?

こうしてまとめられてみると、なんだか、すごいことになっている感じがします。でも、考えてみれば、私自身、父は、早くに亡 くなりましたが、母はまだ存命で、私が60歳になるまで生きる可能性はあります。まわりを見ても、「(自身が)還暦を越えても、親がまだ元気」という人、 結構いますね。

博報堂生活総研では、総子化による、これからの生活変化を次のように予測しています。


1.家族の変化:「核家族」から「一族発想」へ
総子化時代には、普段は核家族として分散している個々の子供たちの力を集結させ、“一族”というチーム力で困難かつ透明な時代を乗り切ろうという「一族発想」が強まると考えられる。

2.親子の変化:「上下反発」から「水平協働」へ
長期化する親子時間により、年齢の上下関係から親と子が解放され、反発しあう対象から、お互いに年を重ねてきた大人として「水平協働」する対象へと変化。親子一緒の消費が活性化するだけでなく、親子で移住や起業などの新展開も考えられる。

3.生き方の変化:「早く大人に」から「子である自由」へ
昔は「早く一人前に」が親孝行でしたが、今や親は長く元気で健在、生活能力もある。子供の気持ちの中には自然に「子である自由」が生まれ、大人としての自覚を持った上でのアグレッシブな挑戦や冒険をする人が出てくる。学び方や働き方を中心に、自分の人生を俯瞰的に捉える個人が増えていく。

「総子化時代のマーケティングチャンス

以下のような切り口があげられています。

1)子供のポジティブ面から発想した新しいターゲット設定や消費行動の創出
親子共学
40代「隙間貴族」
開業女子
老老起業
こども定年

2)親族のつながりを支援する新しいライフスタイルの実現や生活インフラの整備
一族ハウス
ノマド育児
2世代コンテンツ
100超え親子旅行
『○○の日』コンシェルジュ

いやぁ、なかなか、おもしろいです。
以上の内容は、博報堂生活総合研究所RESEARCH NEWS 「生活動力2013」 を出典とし、その一部を抜粋して、まとめたものです。詳しくは、以下のページでご覧ください。

<リンク>
博報堂生活総合研究所RESEARCH NEWS 「生活動力2013」 
プレスリリース(PDF)

2012年5月28日月曜日

シニアが社会に役立つために。

NPOは、定年後の経験豊富なシニアの力をかりたいと思っているが、その一方で、不安も大きい。
そんなデータがありましたので、ご紹介します。
少し古いデータになりますが「シニア世代活用」に関するアンケート調査です。
(データ引用:2009.3「再チャレンジのきっかけとしてのNPO雇用状況アンケート調査報告」 再チャレンジ学習支援協議会)

経験豊富なシニアへの、期待と不安。

「定年退職後のシニア」を求めているNPOは78%。
多くのNPOがシニアの力を活用したいと考えています。

具体的に力を貸してほしいと考えている事項としては、以下のようなものがあります。
  • 前職のスキル
  • 人脈
  • 組織運にすぐれた点を生かす

しかし、実際の受け入れは、不安。 

ニーズはあっても、実際にシニアを受け入れることには、失敗経験を含め、いくつかの不安があるようです。


上位にあげられているのは、表現こそ違えど、同じような指摘です。それは、「ビジネス分野でのキャリアや成功体験があるからこそ、そこからの意識転換が出来ず、新しい組織への理解や柔軟性が求めにくいのではないか」、という不安です。


意識を変えれば、第二の人生が充実する。

NPOだけではありません。先日お話を聞いた、キャリアシニアを専門に扱う人材派遣会社でも、同じような課題に直面していて、最初は「仕事があるだ けでもありがたい」「何でも、やります」と言っていたシニアが、徐々に給与条件や労働条件での不平をもらすようになることが多いのが悩みなのだそうです。

アメリカなどでは、重役まで行った人が、リタイア後、警備員や駐車場係などの仕事を始めた場合には、陽気に楽しく働いて人気者になったりもするそうで、それはおそらく「ここからは、次のフェースだという切り替えがはっきりしている」のではないかということでした。

また、いまは、年金支給年齢との兼ね合いで、定年延長や再雇用が企業に義務付けられるようになりましたが、そこでも、肩書きを失ったり給与が下がっ たりすることにより、モチベーションが低下することが、ひとつの問題としてあげられ、企業の人事部の課題になりつつあるそうです。

あまりにも長くひとつの会社にいると、知らず知らずのうちに、ひとつの価値観や成功体験に縛られ、そのことさえ自覚できなくなりがちです。早く、そこから抜け出して、次の価値観を見つけることが、まずは、より有意義なセカンドライフへの第一歩ではないでしょうか。

2012年5月7日月曜日

20代の3割近くが「自殺を考えた」–内閣府調査結果に思う。

内閣府が、「自殺対策に関する意識調査」の結果を発表しました。
それによると、「今までに本気で自殺したいと思ったことがあるか」と聞いたところ、「ある」と答えた人は全体で23.4%。08年の調査に比べて4.3ポイント増加しています。
特に20代の3割近くが、考えた頃があるという点が、クローズアップされていました。

国民の4人に1人が、本気で自殺を考えたことがある。

昨年の自殺者数は、自殺リスクが高いとされる中高年が前年より減った一方、20代以下 では増えており、今回、20代の若者のうち本気で自殺を考えたことのある割り合いが28・4パーセントに上りました。

20代28.4%
30代25.0%
40代27.3%
50代25.7%
60代20.4%
70代以上15.7%
全体23.4%

時系列でみても、20代の伸びが目立ったこと。また、悩みを打ち明ける相談相手がいるかどうかをたずねた質問で、「いる」という人の割合が、20歳代男性が最も低く87.6%だったこと。「考えたことがある」という回答者のうち、20代では36・2%が「1年以内に」と答え、15・2〜25・3%だった他の世代を大きく引き離したことなどが、より若い層に注目が集まる要因になったのかもしれません。内閣府は「若者に絞り、雇用改善もまじえた対策が急務」と話しています。

しかし、若い層が、何を原因に自殺を考えたのかについては、分析されていません。そこが重要なのではないかという気がします。また、数字を見れば、これは世代をこえた問題で、「国民の4人に1人が、本気で自殺を考えたことがある」というのは、若い層に限らず大きな数字だと思います。

ゲートキーパーの大切さ

最近の自殺対策のキーワードとして、「ゲートキーパー」があります。これは、自殺対策の分野では広く使われてきた用語だそうです。

 ゲートキーパーは「門番」。悩み苦しんでいる人に気づき、声をかけ、話を聞き、必要な支援につなげる人という意味で使われているようです。また、弁護士、民生委員、医師などの専門家だけでなく、国民全員が「ゲートキーパー」の役割を果たせるように・・・という意図で「ベーシック」という言葉をつけて「ゲートキーパー・ベーシック」などとも言われるようです。みんなが気づき合えるようになろうということでしょうか。

1月には、政府が、自殺対策強化月間の標語を「あなたもGKB47宣言!」としたことに批判が続出して、ついに撤回した事件がありました。あのGKBも、ゲートキーパーベーシックの略語でした。
キャッチフレーズは、結局、「あなたもゲートキーパー宣言!」と修正されたようですが、私は、それでは、「あなたもGKB47宣言!」と変わらないのではないかと感じました。

自殺を考える人は、何らかの深刻な問題を抱えているはずです。そんな人に対して声をかけ、話をきくというのは、並大抵のことではありません。それなのに、 「まずは、言葉への認知度が高まれば、それだけで認識が高まる」とでもいうような広告的な発想が感じられて、違和感を感じます。そんなに簡単なテーマではないだろう・・・と。

プロモーションサイトも開設されていましたが、これにも違和感を感じました。
タレントを使ったのは、このテーマを身近に感じさせるためなのかもしれませんが、タレントのメッセージよりも、信頼できる相談窓口やNPOを紹介したり、具体的に問題解決をしてくれるサービスについて説明するなど、死にたいとまで悩む人たちの問題解決につながる具体的な情報を集めたサイトの方が、よほど有用ではないかと感じました。
(追記:サイトは、すでに終了)

自殺対策に取り組むNPOや、個人としてゲートキーパーとしての活動をしている人がいます。「あなたもゲートキーパー宣言!」という軽さや、プロ モーションサイトの内容は、そんな人たちの活動をバックアップするどころか、結果として逆に作用しているような気がしてなりません。
今回の調査結果を受けて、もう少し真剣に考えるべきではないかと、あらためて思いました。

<リンク>
平成23年度自殺対策に関する意識調査
内閣府自殺対策推進室

(参考)本件に関する情報集 NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133592255773215301

2012年4月23日月曜日

「高齢社会」と「高齢化社会」の定義。

今の日本を表す言葉として「高齢社会」「高齢社会」と、メディアでも統一されない言い方がされていますが、 どちらが正しいのでしょうか?その違いは、何でしょうか?あらためてその定義を調べて見ました。

日本は高齢社会、それとも高齢化社会?

まず総務省のサイトを見てみました。「平成22年版 高齢社会白書」の冒頭のサマリー部分を以下に引用します。
我が国の総人口は、平成21(2009)年10月1日現在、1億2,751万人で、前年(1億2,769万人:20年10月1日現在推計人口)に比べて約18万人の減少となった。
65歳以上の高齢者人口は、過去最高の2,901万人(前年2,822万人)となり、総人口に占める割合(高齢化率)も22.7%(前年22.1%)となった。
65歳以上の高齢者人口を男女別にみると、男性は1,240万人、女性は1,661万人で、性比(女性人口100人に対する男性人口)は74.7であり、すなわち男性対女性の比は約3対4となっている。
また、高齢者人口のうち、「65~74歳人口」は1,530万人(男性720万人、女性809万人、性比89.0)で総人口に占める割合は 12.0%、「75歳以上人口」は1,371万人(男性520万人、女性852万人、性比61.0)で、総人口に占める割合は10.8%である。
また、75歳以上人口は、65~74歳人口の伸びを上回る増加数で推移してきている。
我が国の65歳以上の高齢者人口は、昭和25(1950)年には総人口の5%に満たなかったが、45(1970)年に7%を超え(国連の報告書にお いて「高齢化社会」と定義された水準)、さらに、平成6(1994)年にはその倍化水準である14%を超えた(「高齢社会」と称された)。そして、今、まさに22%を超え、5人に1人が高齢者、10人に1人が75歳以上人口という「本格的な高齢社会」となっている。(平成22年版 高齢社会白書より引用)
結論として、日本は、高齢社会です。それも、総務省の表現では「本格的な高齢社会」、一般に言う「超高齢化社会」です。


あらためて、その定義は?

国連が、1956年に「The Aging of Population and Its Economic and Social Implications」という報告書の中で、「高齢者は65歳以上」と定義したことから、全人口に対する65歳以上の人口比を高齢化率というようになったようです。
そして、高齢化率が7%を超え、さらに高齢化率が高まり続けている社会を「高齢化社会」、高齢化率が14%を超えると高齢社会と定義しました。

超高齢社会という言葉もありますが、これは国連の定義にはなく、一般に、高齢化率が21%を超える状態を指すようです。(そんな状態は、国連も予測していなかった?)
まとめると次のようになります。
・高齢化社会=高齢化率7%~14%
・高齢社会=高齢化率14%~21%
・超高齢社会=高齢化率21%~


日本は、1994年に14%を超え、2007年に21%を超えました。だから国連の定義では日本は「高齢化社会」じゃなくて「高齢社会」、非公式な定義では「超高齢社会」です。


日本の人口構成の推移と将来予測

日本では1970年(昭和45年)に高齢化率が7%を超えて高齢化社会に。1994年(平成6年)に高齢化率が14%を超え高齢社会になり、2007年(平成19年)には高齢化率が21%を超えて本格的な高齢社会(超高齢社会)なりました。

そして、その後も総人口が減少する中で高齢者が増加することにより、高齢化率は上昇を続けているわけですが、今後の予測は、
・平成25(2013)年には高齢化率が25.2%で4人に1人
・平成47(2035)年に33.7%で3人に1人。
・平成54(2042)年以降は高齢者人口が減少に転じても高齢化率は上昇を続け、
・平成67(2055)年には40.5%

なんと、国民の2.5人に1人が65歳以上の高齢者となる社会が到来すると推計されています。
さまざまなかたちで、よく見るグラフではありますが、以下に、総務省の報告書から引用した図を掲載します。(クリックで拡大)

高齢化の推移と将来推計
(高齢化の推移と将来推計)

高齢化は、いま、日本が最も進んでいますが、これから世界的に同じ傾向をたどります。
1991 年、国連総会は「高齢者のための国連原則」(決議46/91)を採択。高齢者の地位に関連する以下6 つの領域にわたって、18 の原則が示されているそうです。これらについては、今後、詳しく見て行きたいと思っています。

・自立(independence)
・参加(p a r t i c i p a t i o n)
・介護(care)
・自己実現(s e l f – f u l f i l m e n t )
・尊厳(d i g n i t y)

<参照した情報>
総務省・平成22年版 高齢社会白書(全文<PDF形式>)
高齢化に関する国際行動計画および高齢者のための国連原則<PDF形式>

2012年3月15日木曜日

フリーターの高齢化問題

いわゆる「フリーター」と呼ばれる人々のうち、35~44歳の層が過去最高の50万人に達したと、日本経済新聞が報じています。
政府によるフリーター対策は、この層よりも若年層に向けてのものが多いとされ、就職氷河期の影響を受けた35~44歳の対策が手薄になっているとの指摘があります。


以下、記事の抜粋です。
「フリーター」進む高年齢化 35~44歳、最高50万人
11年2割増 バブル後の氷河期世代

アルバイトやパートで生計を立てる「フリーター」の高年齢化が進んでいる。35~44歳のフリーターは2011年平均で約50万人と、過去最高に なった。バブル崩壊に伴う就職氷河期といわれた1993年以降に高校や大学を卒業し、アルバイトなどを続けてきた人がそのまま40歳前後になった影響とみ られる。現在は15~34歳に照準を合わせている政府のフリーター対策も見直しを迫られる可能性がある。
35~44歳のフリーターは東日本大震災の被災地を除くベースで前年より8万人、19%の増加だった。被災地を含めた前年調査と比較しても6万人増え、データを遡れる02年(25万人)からは倍増した。
02年時点では35~44歳の世代に占めるフリーターの割合は1.6%だったが、その後は上昇傾向を続け、11年には2.8%に達した。この世代が 学校を卒業した時期にあたる95年の15~24歳の失業率は5.5%。これに対して12年1月の失業率は9.5%と雇用環境は厳しさを増しており、就職で きずにフリーターを続ける人の割合は今後、高まる公算が大きい。
実際、15~34歳の世代でもフリーターは増えており、11年は176万人となった。03年の217万人をピークに減少していたが、リーマン・ショック後の09年から増加に転じた。
政府はフリーターらを試用する企業に奨励金を支払うトライアル雇用制度や、就職に向けた助言やセミナーなどを行う「ジョブカフェ」などの対策を進め ている。ただ現行のフリーター対策は若年層に対象を絞ったものが多い。35歳以上の「高齢フリーター」は政府の統計にも入っておらず、対策は手薄だ。
企業の多くは新卒採用志向で、20歳代の社内教育を重視する企業風土も根強い。このため、いったんフリーターになると、中途採用などで正社員になる機会は少なくなる。硬直的な雇用ルールの見直しなど、労働市場の流動性を高めなければ、フリーターが増え続ける可能性がある。
今春卒業予定の大学生の就職内定率(昨年12月1日時点)は71.9%。調査を始めた96年以降で最悪だった前年(68.8%)よりは改善したものの、過去2番目の低水準だった。

40歳すぎたフリーターは、若者?それとも中年?

そもそも、若者って何歳まで?
時代や社会状況によっても「若者」の定義は変わるものでしょうが、個人的感覚では、やはり30代半ばまでという感じがします。40歳を若者とは言いにくい感じがします。とすれば、40歳以上のフリーターとは、いわば、中年フリーターということですね。

2009年に、厚生労働省の「地域若者サポートステーション事業」での、「若年無業者」の定義年齢が、それまでの35歳以下から40歳以下に引き上 げられていますから、まあ、この時代、40歳までは若者で、仕事探しの支援もしましょう、ということなんでしょうか?この流れで、どんどん支援対象年齢が 上がっていくのではないかと、恐ろしい気がします。

しかし、考えてみれば、シニア層にはいろいろな支援があって、若者への支援も進まないながらも課題として指摘されていますが、中年層は、対象からこぼれてますよね。中高年などと、ひとくくりにされたり。これまでなら、最も働き盛りで、社会の担い手の中心で、支援対象とは考えられなかった層ですが、この先はそうは行きそうにありません。「地域ミドルサポートステーション 事業」などというものが実施されることのないように祈りたいです。

一方で、「一生フリーターではいけないのか?」という観点もあると思います。
メディアでの取り上げ方は一面的でステレオタイプな感じがします。
「フリーターでも、それなりに暮らしていけるような社会のしくみはないのか?」というようなテーマの立て方も必要ではないでしょうか?根本的な、パラダイムシフトが必要ではないかと感じます。

2012年1月20日金曜日

「いまの若者は不幸なんかじゃない」という若者が書いた若者論。

絶望の国の幸福な若者たち
「絶望の国の幸福な若者たち」という本がベストセラーになっています。「注目の若き社会学者が満を持して立ち上げる、まったく新しい若者論」などと、あちこち で話題になっています。

作者の古市憲寿さんは、新聞や雑誌での紹介、それにテレビ出演しているのも何度か見かけましたが、見栄えよく、賢そうで、ちょっと ナイーブな「いまの若者」って感じでした。

いわゆる、よくいる学者系のコメンテーターなどと比べると、おとなしめの感じがしますが、時々飛び出す旧世代 への皮肉などは、案外辛らつ。だけど、それが、あまりにもピュアに的をえているので、まわりのおじさんたちが戸惑った顔をしたりするのも、面白い。そんな 感じの人でした。




さて、肝心の本の話。『格差社会のもと、「不幸だ」「かわいそうだ」と報じられる若者たちですが、僕らは幸せです。内閣府の「国民生活に関する世論調査」でも、20代男 子の65.9%、女子の75.2%が現在の生活に「満足」していると答えているなど、それはデータ的にも示されています。』というのが、この本のベースに なっています。

なぜ「絶望の国日本に暮らしながら、幸せだ」と言うのか?

それは、つぎの一説に凝縮されていると思います。
もう日本には、経済成長は期待できないかもしれない。だけど、この国には日々の生活を彩り、楽しませてくれるものがたくさん揃っている。それほどお金がなくても、工夫次第で僕たちは、それなりの日々を送ることが出来る。
たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を 3時間、家ではYou Tubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具は、ニトリとIKEA。夜は友達の家でに集まって鍋。お金をあまりかけなく ても、そこそこ楽しい日常を送ることができる。
彼は、みんなが「今の若者は可哀相だ」と言うけれど、経済が右肩上がりだった1980年代に若者だった世代が、幸せだったとは思えないし、もし可能だとしても、成長社会ゆえの不幸や歪みが内包されていたそんな時代の若者にはなりたくない、と書いています。

定年まで滅私奉公してひとつの会社しか知らず(これぞ内向きと彼は言う)、35年ローンで家を買って、リタイアしたら「そばうち」・・・なんて人生は、 お金がいっぱいあるとしても僕らは結構です・・・という感じなのです。

上の世代への皮肉ともとれる部分もあり、『「今の若者が不幸だ」と言うのは上の世代の嫉妬』だとまで言い、読んだら気分を害したり、怒るおじさんもいるかもしれません。
でも、腹を立てずに、一度読んでみると面白いと思います。妙な主張や意図がないところが、いまの若者を知る手がかりになります。

もし、「お金をかけなくても、毎日便利で楽しい生活をおくり、小さな幸せがあるだって?」「そんな恵まれた生活インフラを享受できているのは、上の 世代ががんばってつくってくれたものでしょ!」「パラサイトしてるだけじゃないか!」等といっても、「だから何?だって、それが僕らの時代なんだか ら・・・」とでも言わんばかりの軽やかさなのです。

この本を読んでわかることは、一言で言えば、絶望と言われる時代にあっても、今の若者は、利用すべきものは利用して、甘えられるところは甘えて、そ んなにがんばらないでも、それなりに自分らしく自由に楽しく快適に「いま」を生きていく能力が高いということでしょうか?その代わり、ないものねだりも、 青い鳥を追うこともしない。考えても仕方のないことは、考えない。昔をうらやむこともない。そして、小さいけれども確かな幸せを楽しむ術を持つ。上の世代 からは、つまらなく感じるかもしれませんが、それは成熟社会の、進化した幸せの持ち方の先駈けなのかもしれません。


小さな幸せは、本当に幸せ?

この本は、次のような結びになっています。
『「日本」がなくなっても、かつて「日本」だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである。
 一人一人がより幸せに生きられるなら「日本」は守られるべきだが、そうでないならば別に「日本」にこだわる必要はない。だから、僕には「日本が終わる」 と焦る人の気持ちがわからないし「日本が終わる?だから何?」と思ってしまうのだ。歴史が教えてくれるように、人はどんな状況でも、意外と生き延びていく ことができる。』
『「日本」にこだわるのか、世界中どこでも生きていけるような自分になるのか、難しいことは考えずにとりあえず毎日を過ごしていくのか。
 幸いなことに、選択肢も無数に用意されている。経済大国としての遺産もあるし、衰退国としての先の見えなさもある。歴史的に見てもそんなに悪い時代じゃない。
戻るべき「あの頃」もないし、目の前に問題は山済みだし、未来に希望なんてない。だけど、現状にそこまで不満があるわけじゃない。
なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく。
絶望の国の、幸福な「若者」として』
受け取り方によっては、少し切ない感じになりますが、実は、「若者は先行世代とは違う、新しいスタイルを持っている」「それが、本当の豊かさなはず」、と作者は希望と自信を感じているような気がします。私は、それは、与えられた条件の中でのポジティブさなのではないかと感じました。


大人たちに、ありがちな反応。

この本を読んで、大人たちはこう言うかもしれません。
あなたは、慶応のSFCを出て、仲間がやっているITの会社にいながら東大の大学院に在籍している26歳のいわばエリート。でも、職にもつけず生活保護を受ける若者や、ワーキングプアと言われる若者たちでも幸せだと言うのか?
あるいは、今幸せだとしても、大人になったらどうするのか?守ってくれる親もいなくなり、豊かなインフラを消費し尽くした後は、どう生きるのか?・・・と。

でも、その答えは、あとがきの中にあります。
『世界には、きっと、誰にさえも気づかれないような転轍機が無数に張り巡らされていて、僕たちの人生は何気ないきっかけで道が分かれてしまう。そして、その世界には後戻りができないような仕掛けが施されていて、ちょっとやそっとじゃ、やり直しが効かない。
・・・・・(中略)・・・・・
ここにいなかったかも知れない「自分」のことを思う。無数の反実性を繰り返したところで、ここにいない「自分」が何をしているのか知る由もないが、ちょっとした違いで人生を変えた「自分」にはシンパシーを感じる。
今より幸せな場所にいるのなら羨ましいけれど、今よりも幸せじゃない場所にいるのならば、後ろめたさを覚える。
その後ろめたさというのは、違う世界にいる「僕」に対して感じると同時に、この世界にいる「誰か」にも感じるものだ。つまり、違う世界では「僕」が引き受けなければならなかった』役割を、この世界で引き受けてしまった「誰か」がいるだろうからだ。』
『同時代を生きることになった人々のこと、僕たちが生きることになった国のことを、この本では考えてきた。それは、別に社会全体に向けられた啓蒙意 識からでも、少しでもこの国を良くしたいという市民意識からでもない。ただ、「自分」のこと、「自分のまわり」のことを少しでもまともに知りたかっただけ なのだ。』
『違う世界にエールは届かない。
だけど、そのエールが響きあうことはあるのかもしれないと思う。』
私は、この本の中で、このあとがきが、もっとも心に響きました。詩的ですら、あると感じました。
彼のある種のセンチメンタリズムを、私は救いであり希望であると感じると同時に、日本で、若者の間から、海外のような格差への激しい抗議がおこらない理由がわかったような気がしました。

そして、彼が言うように、結局のところ、世代論では語れないのです。
この本に書いてあることにどれだけ共感するか、あるいは反発するか。それとも、ただの若者データ集として読むか。それは、もしかしたら世代や立場の違いではなく、感受性の違いによるのかもしれないと思います。

私も何十年か前に、新人社会人の頃、ひとつの会社しか知らず、定年までのレールが見えている人生なんてつまらない、と感じました。どうせ一度の人 生、もっと自由に生きたいと。でも、それは、わがままでもあり、ある種のドロップアウトでもあり、とても重いことでもありました。
だけど、いま、彼らは、それを普通のこととし、それを実現できるインフラと情報と可能性をもっています。その軽やかさは、とてもうらやましい感じがします。

彼は、この本が、「自分」と「自分のまわり」以外の誰かの役にたつなら、それは嬉しいけれど、『それはもはや「僕」の問題ではない』と言っていま す。言えることがあるとするなら、この本を踏み台にしながら、新しい何かを考えてみたら楽しんじゃないか・・・と。その意味では、まさに多くの年代層にとって も、踏み台にできる一冊だと思います。

<外部リンク>
アマゾンで「絶望の国の幸福な若者たち」を見る。

日経BPのこの対談も、割と面白いです。
「絶望の国の幸福な若者たち」の古市憲寿さんに聞く(前編)
『頑張って報われるか分からないのに頑張るのは無駄』、「絶望の国の幸福な若者たち」の古市憲寿さんに聞く(後編)

2012年1月14日土曜日

年間自殺者3万人のすごさを実感。

日本の年間自殺者は、平成10年以降、ずっと3万人を超えたまま推移しています。これは問題だと、言われます。でも、正直なところ、それがどれくらい大きい数字なのか、ピンときていませんでした。
ところが、先日、BSの番組で、ライフリンクの清水氏が、「例えば、東日本大震災と津波による死者の数は約2万人。それから考えても、年間自殺者数3万人というのは、すごい数字だ」と言っているのを目にしました。


そうか。「年間自殺者数3万人」とは、「1000年に一度とも言われる未曾有の大惨事による死者の数の1.5倍もの人が毎年毎年、自ら命を絶ってい るということ」なのか。そういう風にとらえれば、なるほど、それは大変なことだ。う~~ん、と思わず、テレビに向かってうなってしまいました。少なから ず、衝撃を受けました。

しかも、実際の自殺者は警察庁で把握されている数字よりも多く、また、未遂者は既遂者の10倍はいると言われているとも聞きます。そう考えれば、これはとんでもないことだと思います。

東京で暮らし始めた頃、人身事故の多さに驚きました。それは日常的に発生し、ニュースにもならない。運悪くそういう場面に出くわし、停止した電車の中で足止めを食らったりすることもありますが、まわりの空気は、「またか」という感じで、特に騒ぐ人もいません。
 誰かが、「また人身事故で、電車が遅れちゃって・・・」などと言いつつ遅れて出社してきても、「あぁ、運悪かったね」くらいの感じなのです。

そんなことを何度か経験するうちに、自分の身近な日常の中に、普通のこととして、そんなかたちでの人の死があることに、いつしか、驚いたり、悼んだり、怒ったりする感性がなくなっている・・・そう思うと、ぞっとします。

震災や津波で亡くなった多くの方々は、もっと、生きていたかったことだろうと思います。その無念を思えば、それ以上の人たちが、毎年、自ら命を絶つ社会は異常だという感覚、せめて、慣れっこにならず、問題意識だけでも持ち続けなければならないと、あらためて思いました。

<データ・外部リンク>
警察庁「平成22年中における自殺の概要資料」(H23年3月発表/PDF)
上記をグラフにしているサイトがありました。

自殺率の国際比較(2011年段階の最新データ)
。詳しい考察もあり。